フラットに生きる
人間は平等である。
平等に不平等であるという点では、
須く人間は平等だ。
だから人間同士に、
優劣、上下、主従、
は無い。
役割が違うだけで、
人間という種族同士である以上、
どんな人間であろうと、
関係性は50:50である。
偉い人も、
可哀想な人も存在しない。
在るのは、
役割と年齢だけだ。
世界という舞台で、
各々が一人称視点で主人公を演じきり、
舞台を降りるまでの物語では、
誰もが役者であり、
同じ舞台に立つ共演者でしかない。
人間皆平等なんて、
当たり前だと思うかも知れない。
しかし、
平等とは何かを腹の底から理解しないと、
分かりやすい事象の中でしか、
平等を振りかざすことは出来ない。
上っ面な平等に、
どれ程の意味があるだろうか。
人間の平等性を正しく理解して、
フラットに生きる事こそが、
これからの社会に必要なのではないだろうか。
フラットに生きるとは、
つまるところ、
誰に対しても尊敬を持って接し、
他人の価値観を認め、許し、受け入れ、
一人一人が独立した個として生きる事に他ならない。
紳士淑女をもてなすのは、
紳士淑女である。
リッツのクレドのような価値観。
漸近線、理想論、
夢、綺麗事、世迷言、
戯言、自己啓発的思想。
それは承知しているが、
理想は平等には必要だ。
今日平等が実現していない以上、
平等とは理想で、絵空事なのだから、
平等を実像するには、理想が必要なのである。
そしてフラットに生きる事が出来れば、
あらゆるクソみたいな下等な事象の、
必要性は無くなる。
今ある下等な事象、
痛ましい事件の根源は、
稚拙な精神性故であり、
精神性、思想、
価値観のアップデートこそ急務である。
絶対的正解の無い問題でも、
最適解はあるはずだ。
その最適解となり得るのが、
フラットに生きるということではないだろうか。
また、フラットに生きるとは、
どのような場面でも平等を、
意識するということだ。
例えば、
会社という組織で言えば、
社長は社員に給料を払う。
社員は会社に価値を提供する。
それぞれの役割に上下関係はない。
どちらも会社経営に必要な役割で、
どちらも等価値である以上、
関係性は平等である。
トップダウンのイメージに、
囚われているから、
そこに上下がある様に感じてしまうし、
そうした方が経営がしやすい企業もあるかもしれない。
しかし会社という組織も、
結局はフラットだ。
組織の人間である前に、
一人の人間である以上、
平等に扱われなければならない。
と言ってしまうと身も蓋もないが、
フラットな価値観を持つ事は、
円滑な人間関係を構築する上で、
重要な視点だと思う。
フラットに生きるとは、
博愛主義的な理想論かも知れない。
しかし、
上で述べたような価値観を、
実行することで、
助かる命はどれほどあるだろうか。
思い当たる節は、
一つや二つじゃきかないだろう。
理想を掲げ、
理想に邁進することは、
理想に辿り着かずとも、
そこに何某かの結果は生ずるはずだ。
フラッと生きるのではなく、
フラットに生きる事こそが、
昨今の問題解決の一助になるのでは。
そんな話でした。