手を繋いで文化は廻る

世界のあらゆる文化は須く全て繋がっている。それらは互いに手を取り合い、共存共栄し、高めあい、人々をより豊かにする。私は自身が得た文化の一端を伝えていく事でその一助となりたい。

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真贋

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ここ数日、白痴の百鬼夜行に、

都市部の一部地域はヤバ目の薬でも合法化されたのかしらと言った塩梅で、

 

赤信号みんなで渡れば怖くないの延長線での蛮行は、ひっくり返った車を助けて竜宮城にでも行けたらまだ救われたのにと思いつつ、

阿呆まみれの、

クズを良しとする沖縄の中学生のアンチシリアス文化の様な昨今の馬鹿明るさは、

未来を危惧するのには十分な材料だなと、

同じく阿呆の様な女装の格好をして言ったとて、説得力の欠片もないどうも僕です。

 

ちょっと前に吉本ばななさんの実父、吉本隆明さんの真贋を読了し、大いに影響を受けたのですが、

世間がやけに明るいのは考え物だ、暗いくらいが丁度良いみたいな項があり、その通りだなぁと思いながらニュースやtwitterのTLを見ていました。

 

シリアスは果たして悪でしょうか?

僕は根本は暗めの人間ですから、シリアスの肩を持ちますし、常に能天気そうに振る舞う人はどちらかと言えば苦手です。

 

 


IQもEQも低い人は苦手だし、

パレードの法則にのっとり世の中の8割は暴徒予備軍の気があると思っています。

シリアスになる事を恐れ、

当たり障りのない茶番を興じ、

みんな仲良しと手を繋ぎあいながら心の中ではベロを出し、

虚像の中でしか真実を語る事ができないなら、そりゃ毒にもなろうて。

 

 

親鸞的に考えるなら、

浄土が満員になりそうな程の世の中ですが、

どうしようもないのでしょうか?

 

ビートたけしが、他人に迷惑をかけないという事を教育の第一方針とせねばと言っていたが本当にその通りではないだろうか。

 

明るくいる事は素敵な事だし、

鬱屈なままでいる事は不健康かもしれない。

 

だが、明るくいる事にもリスクは孕んでいるし、暗くいる事にもメリットはある。

 

物事を善悪の二元論で片付けてはならないと著者も冒頭で述べている。

 

例えば、太宰治の作品が生まれたのは、シリアスによってもたらされた事だし、

 

もし太宰治パリピなら、

メロスは激怒せずセリヌンティウスを放っておきEDMに合わせて邪智暴虐の王とコカレロでも飲んでいるだろう。

 

シリアスが無ければ、

今まで世に出た数々の芸術は存在しなかったし、

別に沖縄の方を悪く言うわけではないが、

なんくるないさで有耶無耶にされた全ての問題は未解決の棚で埃を被る事だろう。

 

全ての選択に、利と毒があり、利だけに目が眩めば、毒のまわりに気づかない。そしていつのまにか他人に迷惑をかけてしまっているかもしれない。

 

 

今の世は明るすぎると思う。

電気代も馬鹿にならないと思う。

もう少し日々の生活にシリアス要素を足しても、

理性の倫理のブレーキを整備しても、

この真贋という本を読んでみても、

多少の毒を食らっても、

人間でいる事の利に勝るものはないのではないだろうか?