手を繋いで文化は廻る

世界のあらゆる文化は須く全て繋がっている。それらは互いに手を取り合い、共存共栄し、高めあい、人々をより豊かにする。私は自身が得た文化の一端を伝えていく事でその一助となりたい。

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反面教師教育論

本田健さん曰く、
人間関係とは4つのパターンがあり、
磁石のS極N極よろしく、
2づつが対になっているという。

 

対になったポジションは、
場面ごとに表裏ひっくり返ったりもする。

 

なるほどこれは人間界の真理である。

 

無能だと見下す上司に、
頭を垂れる部下。

 

ポジティブな発言ばかりを発する人間に、
それを受け止めないネガティブバリア人間。

 

これらはまた逆も然りである。

様々な人格があるが、
大まかにこのような例に、
そった経験を誰しもが感じた事があるはずだ。

 

これは、他人と相対する時、
集団に混じるとき、
自らが感覚的に、
自分のポジションを探り、
不和が起きない程よいポジションを取るからだろう。

 

空気を読むことと同義であるといっても、
過言ではない。

 

相手が攻めてくるなら、
コチラは守るし、
相手がヘタレ受けなら、
コチラは強気攻めだ。

 

成る程、人間関係は、
BLの役割にも似た部分があるのではないかと、
最近では思う。

 

またこの事から察するに、


他人にこうなって欲しい、
部下に成長して欲しい。

などコチラの意図した通り、
人を動かすとなれば、


自分が、
彼らに求める理想とは逆のパターンを、
演じる事によって可能になるのではないのだろうか?

 

題して反面教師教育論とでも言おうか。

 

自立を促したければ、
自分が自立しない依存した生活、行動を起こす。

 

主体性を持たせたいなら、
自分は、右向け右の風見鶏。

 

経営者意識を持たせたいなら、
自分はだらしないギャンブラーのふりをし。

 

軟派な人間にしたいなら硬派に。

 

受けにしたいなら攻めに。

たけのこにしたいならきのこに。

 

また、
自立心旺盛な両親から生まれた子は、
どこか依存傾向にあるし、
何かに依存しがちな親の元では、
子はしっかり育つものである。

 

明日の生活さえままならぬ家庭の元で、
ニートなんて出来るわけがないのだし……

 

生きるために背に腹は変えられない。

 

とかく子は、
親の背を見て(こうはなりたくないと思い、
そうならないように)育つというきらいがある。

 

子は親を指名などできないので、
現状をどうあっても享受しなければならず、
少なからず、
尊敬と軽蔑の入り混じった目で、
親を見たことがあるだろう。

 

それは、親と対になったパターンで、
人間関係を構築しているからだ。

 

他人がクズに見えるのもキリストに見えるのも、
単にポジションの変化による、
視点の変化にすぎない。

 

コレをふまえると、
下の世代の教育、子の教育方針は、
堕落に堕落を重ね、馬鹿で、
女に狂い、酒に狂い、賭け事に狂い、
新興宗教に狂い、家庭を顧みず、愛も注がず、
バンに入りきらないほどの裏金を貰い、
悪魔の形相で怒り狂い、DVをし、
媚び諂い、金を悪とし、
従業員を路頭に迷わせ、
高額な備品を無駄に買い込んで、
「私利私欲のために使ったとでも?」とか抜かし、
「誰でもよかった」とか抜かし、
嫉妬し、羨望し、嘲り、恨み、
あらゆるクズの総纏めの様な人間になろう。

 

これで、最高の人生を歩むことが出来るだろう。


実行した人間以外は。

 

直接的な愛情表現なんてのはうそ臭い。
偽善的な自己犠牲も同情しか誘わない。

 

ここまで自分の人生を悪事に捧げられる人間にこそ、
僕は人間味を感じ、最上の愛を感じ得る気がする。

 

世の人間が、
良識溢れる賢者や善人や成功者ばかりでないのは、
無意識的に未来を思い、
悪人になっている人間がいるからではないだろうか?

 

PS.

本田健さんの本と三島由紀夫の不道徳教育講座。

やはり俺の青春ラブコメは間違っているの八幡。

この3つを足して着想したのがたぶんこれ。

 

親の背を見てそれとは逆に生きるよねってのは、

松紳かなんかで島田紳助さんが言ってて。

そうだよなーって思ったから。

 

人間関係におけるポジショニングを理解できると、

自分を客観視して、他人に思いやりをもって接する事が出来る。

 

今相手はこういう風になってるな。って理解しながら接するのと、

なんであいつはあんな事言うんだよやるんだよって、

理解できずに接するのは自分へのストレスの軽減とか、

関係を良好に保つためにこの考え方はいると思う。

 

何か思うところあれば、

気軽にコメントくださいね!

 

またね!!($・・)/~~~

現世は夢 夜の夢こそ真

江戸川乱歩傑作選 (新潮文庫)

 

 

江戸川乱歩
「うつし世はゆめ 夜の夢こそ真」と言った。

 

これを真だとするならば、
この文章を書いている世界が夢だとするならば、
思い通りに状況を変えられるのではないか?

 

理想を抱いて死んでいく事もなく、
理想を抱いたまま生きていくことが可能なのではないか?

 

例えば、
この世界は残酷で非情で厳しいと思う。

ならばこの世界は夢なので、
その通りに歪曲していく。

 

例えば、
この世界は毎日がエブリデイで
ハッピーサンデー日曜日だとするならば、

この世界は毎日みんなが笑って、

お日様も笑って、

お魚くわえたドラ猫おっかけて、

楽しいハイキングしてじゃんけんしてうふふふふふふな世界になる。

 

辛い現実を見ているのは自分で、
甘い現実を見ているのも自分だ。

 

結局自分の見たいように夢を見るのなら、
どうせ夢を見るのなら、
最上の夢を見ればいいではないか。

 

いい意味で、
夢は夢であるのだから。

 

限りあるこのうつし世のゆめで

あなたは本当はどうしたい?

 

人間は皆平等に不平等だ

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人間は皆平等に不平等だ。

 

 

平等である為には、
皆が同スペックで同一の行動をしなければならない。

 

僕が右に進み、あなたが左に進むのは不平等だ。不公平だ。

仮に結果が同一で、距離も同一だったとしても、

プロセスが違えば、平等ではない。

 

そして、

生年月日も容姿も能力も生活環境も金太郎飴の如く均一に。

 

仮にそんな事が可能として、(ロボット以外無理だが)

そんな世界で人類が繁栄するであろうか?

 

平等など幻想だ。

 

しかし、逆説的にそれは、
 

あなたがあなたでなければならない理由であり、
あなたの存在が肯定されている理由である。

人間が人間として生きていられる理由である。

 

人間は皆平等に不平等だ。

 

だから誰しもにチャンスがあり、
誰しもに幸せになる権利がある。

 

・・・・・・・・・・・・

 

「人間は皆平等に不平等だ」

というフレーズが自分の中で好きです。

単に言いたいだけかもしれません。

 

このフレーズを思いついたのは、

「人にあらずんば」っていうフリゲーをやった感想書いた時。

 

ここで書いた時は、ゲームのメッセージに対してのアンサーとして書いた。

けれど、自分の中でどんどんポジティブな意味合いが強くなった。

 

生きていていいんだよ。

今の苦痛は絶対に止む。

 

今をどうにかしたいのは、わかる。

でも、だからこそ、未来に目を向けて欲しい。

 

今だけを見ないで、世界はそんなしょうもない事ばかりじゃないんだ。

 

「自分を守る為の逃げなら大アリです」

 

銀の匙で校長が言ってた。その通りだ。

 

ダサいとか知るか。世間とか知るか。

親が歩けなくなるほど拗ねかじり倒して、

支えに支えられて、それでもいい。

 

自分が出来る小さな小さな一挙手一投足を、

自分自身が認めてあげて、

人間として最後まで生きて欲しい。

 

馬鹿に限って声が大きく、その声に馬鹿が反応し、

踊る馬鹿に見る馬鹿、同じ馬鹿でもああは絶対なりたくない。

 

世界は間違っているし、人間だって動物的にはぶっ壊れてる。

間違いだらけの世の中で、

正しさなんて容易く踏みつぶされる。

 

でも、そんな中でも、心の中に太陽を持ち続けられる奴だけが、

本当の本当に平等に不平等の世界を生きられるんだと思う。